スウィートテラス
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 卑劣で甘く優しくて〜Morning kiss〜
   彩香りさ 著/2008年8月

 

 さーさーと刻むリズムが潮騒だと気づき、ふと将孝は目を開けた。心地良い目覚めだった。
  けれど、シーツの上、横にいるべき人の姿はない。
  おや?と首を傾げれば、天蓋つきベッドの向こう、遮光カーテンの隙間からさす蒼を滲ませるうす明かり。

  夜明けのようだった。ベッドサイトの時計を見れば四時半。
  そして、彼がラナイにいるらしいと察し、将孝は床へ降りるとガウンをはおってガラス窓をあけ――……途端、目に飛び込むのははるか彼方までつづくアクアマリンブルーの海。
  よせてはひく波は穏やかで、昼間のぎらつく太陽の照り返しと、水に戯れる人の喧騒はどこにもない。
  あるのは悠久の昔からつづく自然の、途切れることない豊かな脈動。
 
  地上の楽園・ハワイの、神々しいまでの清暁。

  思わず深呼吸していた。
  すると、広いラナイのデッキチェアで何か動く気配がし、背もたれから汐見絢人――将孝の恋人がひょいっと白皙の美貌を覗かせた。

「すごいため息だな」
 
  そう言うと、彼はすぐ顔をひっこめ、チェアの上で足を優雅に組みかえるのだが。
  ふわ……とパイル地のガウンが波打ち、細く引き締まる足首が隠しようもなくあらわになる。
  女性の折れそうなそれではない。
  だけど、将孝はかつてあれほど艶っぽく心騒がせる足首を見たことがなかった。

  唇付けたい――。

  そう変質的に思わせるのは何も恋人の欲目ではないはず。
 
  絢人は将孝の同僚だ。大学時代からの知り合いで、同じ倉城銀行本店に勤務するふたつ年上の先輩。
  とても我が儘だが潔く、教養と多数の自信にもとづくプライドを持ち、芯もかなり強い。
  その彼とここオアフに着いたのは昨日の朝だった。会社のリフレッシュ休暇めいっぱいの六泊八日。
  絢人はしぶったが、強引にでも連れてきてよかったと、将孝は思っている。
  なぜか。
 
  だって、嫁さんとラブラブハネムーンをすごしたいと思うのは当然だろう?
 
  それに……と将孝は昨日のことを思い出してほくそ笑む。
  昨日はこのホテルについてすぐ求めたが、絢人は従順に応じ……、その時の、身体の芯を焦がす彼の嬌態が鮮明に蘇り、やに下がらないわけにはいかない。
  今も彼を見ただけで落ち着かず、このまま襲いたいと思うほど。
  などと静謐な朝の冒涜も甚だしくよからぬ妄想を抱けば、デッキチェアから絢人がまた顔を覗かせ、目があった途端、彼は胡乱気に眉を寄せたが、思いなおしたように静かに言った。

「のど渇いた」
 
  声は少しだけ掠れていた。昨夜さんざん喘がせたせいだろう。表情にも何か情事の余韻と思しき色気が滲んでいる。
  けれど、見上げる眼差しは凛と澄み、色情に濡れる様子はどこにもなく、漂うのは気品すら感じさせる高雅な艶。 
  将孝はたまらなかった。間髪入れず「水、持ってきます」と言っていた。事実、絢人には額づいてでも傅きたいと思わせる何かがある。
  すぐ広いスウィートのバーカウンターへ行った。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、そのままラナイへ。
 
  デッキチェアの横へ行き、ボトルキャップを開けて絢人に差し出した。彼はかすかに微笑みながら飲み口に唇を寄せる。
  華奢な首の喉元がこくん……と小刻みに上下した。水を嚥下する恋人はただそれだけで麗しく、将孝はいてもたってもいられない。

「俺にもひとくち下さい」
 
  思わず言っていた。
  絢人が特に気にするふうでもなくボトルをす……と差し出してくる。飲み口に滲むのはわずかな水滴。 将孝はそれを受け取ると、こわれものを扱うようゆっくり唇付けた。

「先輩と間接キスだ」
 
  ふれる飲み口から彼の馥郁たる残り香が漂ってきそうだった。
  将孝はしあわせの甘い喜びに酔い痴れないわけにはいかない。
  一方の絢人はといえば、驚くように目を見開き、それからひどく怒ったような様子で目を吊り上げた。

「何子供みたいなこと言ってんだ。間接も何も……」
 
  そこで言葉を淀ませると、彼はぴたっと口を噤んでそっぽを向く。
  呆れているようだった。そして、照れと羞恥で目も合わせていられない……というかのように目元をほんのり朱に染める。
  それはふるいつきたくなるような嬌羞。
  その優美にして可憐な表情に、将孝は心が激しくノックアウトさせられるのを感じないわけにはいかなかった。

「そうですね。俺たちに間接キスなんて必要ない。何せ……」
 
  そう言うと、将孝はその場で膝をつき、魅惑を帯びる細い踝にうやうやしく唇付けする。
  絢人の華奢な身体が強張った。
  将孝は顔を上げると、戸惑う恋人の目をまっすぐ見つめて熱っぽく囁いた。

  ――あなたのその愛らしい唇にもキスしたい。
 
  絢人はいよいよ真っ赤になる。
  けれど、拒否はなかった。
  将孝は彼の朱に染まる頬を両手で挟むと、すくいあげるように覗き込む。そして、はにかむ恋人に近づくと、たおやかな花を思わせる唇にそっと接吻するのだ。
 
  瞬間、甘美な痺れが脳天からつま先までを貫いた。
  いくどとなく味わう彼は今朝も目眩を覚えそうなほど……甘い。
 
  もっともっと唇付けたかった。
  口の中の粘膜も、飴玉のような舌先も、芳醇な蜜のような唾液も、すべて貪らなくては気が済まない。
  だから、将孝はそのおもむくまま、唇付けの角度を深めていくのだが。

「ストップ」
 
  さらなる接触を求める将孝の目論見は、素っ気ないひとことで打ち砕かれた。
  絢人は将孝をほぼ暴力的につっぱねると、手の甲で唇をぬぐってプイッと横に視線をやる。
  けれど、拒絶するような横顔は明らかに震え、ふだん色の白い耳朶を染めるのは熟成する果実のごときあざやかな艶。
 
  今この場で押し倒してしまおうか――――。
 
  将孝はそう思わずにいられなかった。
  すると不穏な気配を察したらしい絢人はその場にすっくと立ち上がり、キッと将孝を睨みつけた。

「もうひと寝入りする。絶対起すなよ?」

  言葉とともに彼はすたすた部屋へ入ってしまうのだが。
  いよいよ明けはじめる清々しい空のもと、将孝にその言いつけを守る自信は一○○%ないことだった。

【〜Morning kiss〜 終 】